トロント(カナダ)在住20年の筆者が、カナダ国内旅行やトロント市内を中心としたイベントで撮影した写真で綴るブログです。
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2014年4月22日火曜日

「赤毛のアン」の翻訳者の学び舎、東洋英和女学院(2)


NHKの朝ドラで「赤毛のアン」の翻訳者である村岡花子さんが寄宿舎生活を行っていたのが、東京六本木の鳥居坂にある東洋英和女学院(以下学院)。ドラマの中では修和女学校と呼ばれる村岡さんの出身校は、現在は都営地下鉄大江戸線麻布十番駅から徒歩5分ほどという都心のど真ん中にある創立130周年を迎えるキリスト教主義を掲げるミッションスクールで、本部・大学院棟、中等部・高等部、正面の鳥居坂教会をはさんで幼稚部・小学部と並んでいます。

学院の卒業生には、女優の高峰三枝子さん、エッセイストの阿川佐和子さん(東洋英和女学院中学部〜高等部)や、神津カンナさん(東洋英和女学院高等部卒)、プロ・フィギュアスケートの村主千香さん(東洋英和女学院大学卒)、フジテレビ・アナウンサーの益田由実さん(東洋英和女学院高等部)など有名人が多数在籍しているなど、「良家の子女」が集まる女子校としてのイメージが定着しています。

朝ドラで描かれている寄宿舎での生活では、当時の上流階級に属すると思われる人々が高額な授業料を払って入学してくるという光景が時にはコミカルに描かれていて、実際のところそういった現実はあったようです。それが創立当初に描かれていた設立の意図に沿うものであったかどうかについては、いろいろと理由があったようです。


学院が創立した時代のカナダは、アジアへのミッション(キリスト教宣教)のためにキリスト教会が募金をし、宣教師と呼ばれる専門に訓練を受け使命感に燃えた人々を見知らぬ土地に送るという活動が盛んでした。時の日本は開国間もない明治初期。外国人は「居留地」と呼ばれる場所で政府の監視下に置かれていました。
学院の創立者であるミス・カートメル宣教師も築地鉄砲洲に置かれた築地居留地に身を寄せ、ほぼ2年間聖書や英語を教える傍らで日本語や日本の風習を学んだと言われます。この築地居留地は、上の図のように現在の聖路加看護学校周辺の中央区明石町にあり、当時は周囲を掘り割りが取り囲み、橋には関所が設けられていて出入りは管理されていましたが、一方で居留地内の人々を外的(外国人を良く思わない人々)からの襲撃から守る役割も排他していたようです。


学院本部入り口正面には、ミス・カートメル宣教師を描いた絵画が掲げられています。

素朴な疑問ではありますが、彼女はいったいどうやって日本にやってきたのでしょうか。

北米と日本が初めて船によってつながったのは、ペリーの黒船来航(1853年)によるものです。その後日本は鎖国政策を改め開港。1867年にはサンフランシスコを出発した太平洋航路の1番船が横浜に到着。翌年には江戸幕府から明治政府へと移行するなか外国人居留地が定められ、海外からの商業活動が本格的に始まると同時に、キリスト教の宣教師達もやってくるという流れになります。

ミス・カートメル宣教師はカナダ東部のオンタリオ州、トロントから約1時間ほどのハミルトン市にあるキリスト教会に属していました。太平洋航路の汽船に乗るためには、まず西のビクトリア(現在のバンクーバー)まで行かなければなりません。カナダの東西が鉄道で結ばれたのが1881年のこと。北米から日本への商業汽船による航路は、すでに1867年から営業を開始していました。彼女が築地の居留地に到着したのが1882年ですから、開通したてのカナダ太平洋鉄道でビクトリアまで行き、そこから汽船でサンフランシスコへ向い、横浜行きの太平洋航路に乗り換えたのでしょう。
1850年代から90年代までの北米はゴールドラッシュの時期で、カリフォルニア(1848年)に始まりコロラド(1850年代)、クロンダイク(1896年)、アラスカ(1899年)とアメリカとカナダの間を結ぶ西の港は汽船ブーム。サンフランシスコを出た船はビクトリアに寄港していたという記録もあるので、カートメル宣教師はビクトリア(バンクーバー)から直接横浜に向った可能性が高いと考えられます。

1853年 ペリー来航
1854年 日米和親条約
1858年 日米通商条約
1867年 太平洋航路(パシフィック・メール汽船会社によるサンフランシスコ〜横浜〜香港ルート)
1868年 明治が始まる
1869年 築地鉄砲洲に外国人居留地を定める
1881年 カナダ太平洋鉄道の開通
1882年 ミス・カートメル宣教師の来日
1884年 東洋英和女学校が創立
1899年 治外法権撤廃により外国人居留地は廃止


カナダの大陸横断に約1週間、汽船で約20日を考えると、ミス・カートメル宣教師はほぼ1カ月をかけてカナダから築地へと到着したという計算になります。ひとくちに1カ月と言いますが、カナダの大陸横断鉄道で現在のような快適なプルマン型と言われる寝台車が導入されたのは20世紀になってから。彼女は、荷物車に毛のはえたような質素な客室に座りっきりで1週間を過ごしたのではないかと想像されます。上の写真は当時とほぼ同じルートを走っているVIA鉄道から撮影したものですが、ロッキー山脈を越える路線は、こうした切り立った崖のような場所を走っていて、ミス・カートメル宣教師もおそらくこうした風景を車窓から見ていたのです。
汽船での旅も同様で、旅の性格上無駄なお金を使うことはしなかったはずですから、この旅は容易なものではなかったはずです。

朝ドラでも登場するブラックバーン校長のモデルになったのは、実在したI.S.ブラックモア女史。彼女も宣教師としてカナダから派遣され、ミス・カートメル宣教師と同様の旅をして日本にやってきました。朝ドラではかなり厳しい役になっていますが、実際も厳格な方だったと伝えられています。テレビを見ていると「もう少し優しくしてあげればいいのに・・・」と思わなくもありません。しかし、純粋で熱心な女性達が見知らぬ土地に旅をするということの現実に加え、異国の日本では政府に常に監視され、外国人ということで受ける多くの差別があっただろうと想像できる状況を考えると、教師として生きていた彼女達が何を見、何を考えていたのか、そこには実に深いものがあったと思わざるを得ません。

生きて母国に帰ることができるかどうかという中で、日本へのキリスト教の布教活動に使命を感じ、その手段の一つとして子女教育を行っていた彼女らが、将来のある若い日本の女性達にどんな未来を見ていたのか。教育も含め、充分に権利が認められていなかった当時の若い女性たちに、何を伝えたかったのか。そうしたことを考えると、ブラックバーン校長が終始厳しい姿勢で生徒達に立ち向かって行った本当の意味について考えさせられると同時に、前回触れたスコット先生の美しい歌声に隠された別の姿についても、思わざるを得ないわけです。そして、カナダから海を渡ってやってきた限りなく意識の高いこの女性達が目指す教育姿勢に気づいた一部の国際的な経験をしている日本人が、自分の子供達の未来を学院に託そうとしたことは良く理解できるところでもあります。

新潮社から出版されている「花子とアンへの道」を読むと、村岡さんはついぞPEIを訪れることはなかったと記されている個所があります。にも関わらずなぜ「赤毛のアン」が多くの人々を魅了する翻訳になったのでしょう。文章の翻訳というのは独特で、原文に忠実である必要はあるのですが、日本語として訳された文章が原文の世界観や空気というものを自然な形で表現されていないと、小説として成立しないのは言うまでもありません。村岡さんが「赤毛のアン」が描いている異国の情景を的確に訳すには、英語力や日本語の文章力に加えて、原作に対する深い理解が必要です。
この点について学院資料室の先生方にお伺いをすると、皆さんが口を揃えて、村岡さんが在学していた当時はカナダ人宣教師や教師と寝食を共に寄宿舎で生活をしていたことを挙げられ、彼女が手にした原著「Anne of Green Gables」の世界観とそれが一致していたということがあったのではないか、と。そのお話をしている皆さんも「自分の学生時代にはミス○○先生の授業を受けた」と懐かしい様子で話しておられる姿に、学院の伝統は今も受け継がれて来たのだと感じ入りました。


村岡さんが「赤毛のアン」の原著「Anne of Green Gables」を手にしたのは、第二次世界大戦直前のこと。キリスト教主義を貫いていた当時の学院は国の統制のため存続の危機に陥り、開戦を間近にしてカナダから派遣された宣教師はすべて母国に帰還せざるを得ない状況でした。村岡さんはすでに学院を卒業し教文館で働かれていましたが、同僚の婦人宣教師ロレッタ・レオナルド・ショーが帰国の際に手渡した「Anne of Green Gables」の初版本が、いつの日にかカナダの文学を日本に紹介したいという彼女の願いをかなえる最初の機会として与えられます。

河出書房新社から出版されている「村岡花子エッセイ集 腹心の友たちへ」の中で、「教育というものは、教えられたすべてのものが忘れられた後に残る一つのもの」というくだりがあります。

厳しい戦火、灯火管制の中で「家じゅうの原稿用紙をかき集めて」翻訳を始めたと「花子とアンへの道」に記されています。それは学院の創立者ミス・カートメル師や、村岡さんの英語の先生であったブラックモア女史がかつて経験し立ち向かっていた過酷な状況と重ね合わされる部分が多いと感じます。これはまったくの私個人の感想ですが、こうした過酷なことも含めて村岡さんが宣教師たちから人格教育として寄宿舎生活の中で受け取っていたとするなら、それはおそらく現地に行って現場を見る以上に豊かなカナダの文化やキリスト教思想というものを彼女達は学院で共有していたのではないかと。それは美しい服装をよろいのようにして身を包んだ女性達のこころの中にある弱さや強さというものも含めて、戦乱の中で苦しんだ彼女はもしかしたら寄宿舎での宣教師達との交流を思いながら翻訳を続けたのかもしれないと、そんな風に思わされるのです。

アニメーションの監督として有名な宮崎駿さんは、新作の製作過程で東日本大震災を経験し、その3カ月後にスタッフを集めて次のように告げた映像が、NHKのプロフェッショナル 仕事の流儀という番組の中で流れているのをふと思い起こしました。

「もっと物質的にも時間的にも窮迫した中に生きなきゃいけなくなるだろうと思うんです。その時に自分たちは何を作るのか。少なくともそれは十分予想されるときに前と同じようにファンタジーを作って、女の子がどうやって生きるかというふうなことでは済まないだろうと思いました。「風立ちぬ」というのは、実は激しい時代の風が吹いてくる、吹きすさんでいる、その中で生きようとしなければならないということです。それがこの時代の変化に対する自分たちの答えでなければならないと思います」


この日は東洋英和女学院高等部の露木部長先生の案内で、大講堂とメモリアル・チャペルを見せて頂きました。

東洋英和女学院大講堂 - Spherical Image - RICOH THETA


大講堂には、建学の精神である「敬神」「奉仕」という文字が掲げられています。


メモリアル・チャペルの中に入ると、不思議と創立当時の空気を感じるような空気に満ちあふれていて、特に明治時代に卒業生が寄贈したオルガンがひときわ目立ちます。




譜面台には、村岡さんもこのオルガンの音を聞いていたのではないかと予想できる日付が読み取れます。このチャペルは、学院の礎を築いた「カナダ・メソジスト」の流れを汲む伝統にならい、聖書の輪読や早朝のお祈りの会などに使われています。


本部棟を入って正面右の学院史料展示コーナーでは、現在「村岡花子と東洋英和II」展示が行われていて、学院の創立と村岡さんのゆかりの品などが展示されています(展示は2014年9月末まで)。カナダ観光局が行っている展示は規模が大きく全国を回っていますが、学院の史料展示は学校が開いていれば誰でも見ることができ、こぢんまりとしているもののドラマの舞台となった学校で見る展示は、またひと味違った美しいものになっています。


正面左手奥には、創立者のミス・カートメル宣教師が単身カナダから日本に渡った時に使われた木製のトランクが展示されています。これはご家族が学院に寄贈されたものだとお伺いしました。

彼女が翻訳に着手した時に手にしていた初版本の「Anne of Green Gables」。同じものがガラスケースの中に入っていて、誰でも見ることができます。年代の入った緑色の書物を見ていると、変える事ができない大きな歴史の流れの中に翻弄されながら、カナダと日本に住む二人の婦人たちによって繋がれ、翻訳された不思議な歴史を思います。その後驚くべき冊数が世界中で出版され、日本でもベストセラーとなった蔭には、こうした学院から受け取った教育の豊かな実りというものがあったように思われてなりません。そしてこの学院が起点となり、オンタリオ州ハミルトン市、そしてプリンスエドワード島が結び合わされて行くさまは、まさに人間の思いを越えたものがあるように感じさせられます。

東洋英和女学院史料展示スペース - Spherical Image - RICOH THETA


展示の見学は、日曜、祝日以外の9:00~20:00(土曜日は~19:00)となっています。「赤毛のアン」とプリンスエドワード島をより深く理解するためにも有益な展示ですので、ぜひ六本木にお立ち寄りください。詳細は下記ウエブサイトをご覧下さい。
http://www.toyoeiwa.ac.jp/topics/20140313102539_f.html

次回は、感謝の桜物語について書いてみようと思います。