トロント(カナダ)在住20年の筆者が、カナダ国内旅行やトロント市内を中心としたイベントで撮影した写真で綴るブログです。
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2013年9月18日水曜日

ユーコンからスキャグウェイへ、絶景鉄道の旅は歴史の旅でもあった

20130905_145525 ユーコン秋旅のレポートも第3回になりました。今回は山岳鉄道に乗り国境を越えてアメリカ合衆国アラスカ州への旅と、この鉄道敷設のきっかけとなった出来事について書いてみたいと思います。

乗り込んだ列車の名前は、「White Pass & Yukon Route(http://www.wpyr.com/)」。White Passというのは峠の名前(ホワイト峠)で、カナダ側の出発点ブリティッシュ・コロンビア州フレーザーの街から峠を越えてアメリカ合衆国アラスカ州スキャグウェイの街をつなぐ全長45キロのルートを約1時間ほどかけて走ります。

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出発はホワイトホース。マイクロバスに乗り込み、景色の良い場所で休憩しながら約2時間をかけてカナダ側の出発点フレーザー駅に到着。出発を待つレトロな外観の客車に乗り込むと、「絶景列車」という言葉がピッタリの素晴らしい風景を車窓から見ることができます。

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というのも、この山岳列車が通るルートはこんな風に切り立った崖! こんな場所に鉄道を通すため、レールの幅が標準のものよりも10センチほど狭い幅914mmの「Narrow gauge(狭軌)」を採用。カーブの多いルートでは小回りが効き、軽量のため建設コストも安くつくことから、こうした山岳鉄道や森林鉄道などに多用されているものです。2両のディーゼル機関車に引かれ、ゴトンゴトンという音を立て車体を揺らしながら渓谷の中を走って行く乗り心地はまさに「野趣溢れる」もの。
出発してまもなくアナウンスがあると、車両と車両の間のデッキに出ることもできます(自己責任で・・・)。外はちょっとだけ冷えますが、車内はストーブが焚かれていて暖か。つい居眠りしてしまいそうです。

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終点のスキャグウェイは、クルーズ船の停泊する港町。実はこの列車、クルーズ船の乗客向けに船を降りてアラスカの山岳風景を楽しむ人気の観光プログラムに組み込まれていて、列車は船に横付け。直接乗り込むことができます。今まで知りませんでしたが、一週間ほどを使ってアラスカを回るクルーズ・ツアーは人気で、多くの乗客がシアトルあたりからアラスカ観光を楽しんでいるようです。
我々はカナダ側からの乗客。この列車がツアーに組み込まれていた理由は、鉄道の生い立ちがカナダ最大の金鉱脈の発見である「ゴールドラッシュ」と深いつながりがあると説明を受けていました。

1896年 ユーコンでのゴールドラッシュの始まり
1897年 鉄道会社設立
1898年 建設開始
1899年 ゴールドラッシュの終わり
1900年 完成
1982年 財政難により廃止
1988年 観光鉄道として再開

ユーコンで金が発見されて多くの人が鉱脈へと殺到し始めた時に問題となったのが、アラスカからカナダへ向う険しい山岳ルート。金鉱へたどり着く安全な陸路を開拓するため、1896年には鉄道の建設計画が始まりました。いくつもの案が持ち上がるものの、実現したのはこの鉄道のみ。山岳鉄道の実現には、多くの困難があったようです。
鉄道が完成したのは「ゴールドラッシュ」の後でしたので、実際にこの鉄道が活躍したのは鉱物を運ぶ貨物列車としての運行。実はユーコンはレアメタル(希少金属)の宝庫で、現在でも30種以上の希少金属が採取され、中には発見されて間もないものも含まれているのだとか。掘り出された金属を港に運ぶ役割を得たために、鉱山列車として生き残ったものの財政難で運行を停止。スキャグウェイの港にクルーズ船が停泊するようになると、ようやく観光客向けのオプショナル・ツアーを提供する山岳観光列車として息を吹き返し、現在に至るというわけです。

素朴な疑問
実はこの旅行のお話をいただいた時には「オーロラ」「ツンドラ紅葉」という秋色ユーコン旅のハイライトが印象的で、普段から「金(Gold)」とは縁遠い暮らしをしている私にとって、「ゴールドラッシュ」と聞いてもピンと来なかったのは正直なところです。しかし日程の最終日、列車で走ったルートがあまりにも険しく、「いったいどういうことなんだろう?」という素朴な疑問が残っていました。

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「ゴールドラッシュの街」と言われるドーソン・シティーに入った時も同様。大きくて古びた木の看板とかがあって「ゴールドラッシュの街へようこそ!」みたいなことかなと予想していたのですが、静かな空気が漂う街の感じに、「いったいどういうことなんだろう?」という素朴な疑問が頭をもたげます。誤解を恐れずに言うとかなりゴーストタウン的な雰囲気で、街はずれに置かれた銅像を見た時には思わずため息が出てしまいました。
旅が終わりトロントに戻って来て撮影した写真を一枚ずつ確認していくうちに、「なぜゴールドラッシュ?」「そもそもゴールドラッシュって何?」から始まって、街中で見たちょっとだけ誇らしげな「Klondike(クロンダイク)って何??」「なんでカンカン踊ってるの??」と疑問は膨らむばかり。「それならちゃんと解決しておこう」と思い、ユーコンで見た素晴らしいオーロラの話題の前に、このブログを書くことにしました。

まずは「ゴールドラッシュって何?」
時代を戻します。
金鉱目当てでユーコンに向った人々がまず向ったのが、ドーソン・シティー。ここは2つの川(ユーコン川とクロンダイク川)の交わる北東側にあり、実際に金が発見されたのはクロンダイク川周辺だったため、その地名を取って「クロンダイク・ゴールドラッシュ」と呼びました。クロンダイクのお膝元、金鉱脈にアクセスする基地としてのドーソン・シティーに銀行や郵便局、宿泊施設や娯楽施設が集中したのは自然な流れだったと理解できます。

この時日本では明治維新(1868年)の前夜、ペリーが黒船に乗って「そろそろ日本も開港してね」と迫っていた時代(1853年)。アメリカではリンカーンが第16代の大統領に就任(1861年)し、あの有名な「人民の、人民による・・・」という「ゲティスバーグ演説(1863年)」を行った時代。フランスではナポレオンが国を統治し、ロンドンでは世界初の万国博覧会が行われ(1851年)、ロシアではカール・マルクスが「資本論」の第1巻を刊行し(1867年)、アラスカをアメリカに売却した(1867年)時代。
世界各地では金が発見され、皆が一夜にして億万長者になる夢を持ち、一攫千金を狙ってどこへでも出かけて行くという気分に溢れた時代でした。
幕開けは、北米カリフォルニアの河原で砂金が発見された1848年。以後1888年にアラスカ州ノームで金が発見されるまでの40年間、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドで次々と金鉱が発見され、下記のような一大ブームが起きました。これを「ゴールドラッシュ」と呼んだわけです。この時代の主なものは以下の7つですが、調べてみると他にもたくさんあって驚きます。

(1)カリフォルニア州(1848年)
(2)アメリカ合衆国コロラド州(1850年)
(3)オーストラリア・ビクトリア州(1851年)
(4)ニュージーランド・オタゴ(1861年)
(5)アメリカ合衆国サウスダコタ州ブラックヒルズ(1874年)
(6)カナダ・ユーコン準州クロンダイク(1896年)
(7)アラスカ州ノーム(1899年)

ボナンザ・クリークで金が発見される
事の発端は1896年の夏、アメリカ人の鉱山試掘者であったGeorge Carmackと妻のKateら4名が、サーモン釣りのためにクロンダイク川から山に向うボナンザ・クリーク入った時のこと。Georgeはいつもの習慣で、何気なく川辺の土をすくって水で洗い流す「Gold Panning」をしてみると、皿の中に砂金を見つけます。
クロンダイク川周辺は、古くから周辺に住む先住民族が夏にサーモン漁を行う場所として訪れていただけで、金とは何の関係もない場所でしたから、砂金を発見しても金鉱に結びつくサインとは考えませんでした。しかし数カ所で同じことを繰り返しているうちに「nugget the size of a dime(ダイム硬貨と同じ大きさの塊)」を見つけ出すに至り、状況は一変します。


ここに豊富な金があることを確信し、サーモンフィッシングどころではなくなった彼が集中して付近を探索すると、岩の間に肉眼でもはっきりと見える金を発見。翌日にはクロンダイクで第一号となる金の採掘権(Claim)を取得しました。発見当時ここは「エルドラド(アンデスの奥地に存在する伝説の黄金郷)・クリーク」と呼ばれ、現在も「Discovery Claim (Claim 37903)」というカナダ指定の史跡として、訪れることができます。

チャップリンが映画制作の題材にした、カナダのゴールドラッシュ
年末になると「金発見!」のビッグ・ニュースは街を出てユーコン中に広まります。
人々はマイナス50度にもなろうとする厳冬の中を犬ぞりを走らせてクロンダイクへと向い、われ先に新たな採掘権を取得するために現地に入ったといいますから、大変です。
翌年の1897年にアラスカ経由でアメリカにこのニュースが伝えられると、「Klondike Stampede」と言われる現象を引き起こしました。「Stampede」とは動物が天敵に襲われるなどして一斉に逃げ出す様子を指すわけですが、「金鉱発見!」のニュースを見聞きした人々が我先にとクロンダイクに向けて殺到する事態となったわけです。

象徴的なシーンとして、チルクート峠を列をなして歩く人々の写真が今も残っているのですが、あの喜劇王チャップリンがこの写真を見て映画の構想を思いついた「黄金狂時代(The Gold Rush)」は、あまりにも有名。完成した映画は、本人が代表作の一つと呼ぶほどのお気に入りだったそうです。ちなみに、チャップリンが「黄金狂時代」を制作したのは1925年。自身がユナイテッド・アーティスツという会社を設立し、「黄金狂時代(1925年)」「街の灯(1931年)」「モダン・タイムス(1936年)」「独裁者(1940年)」「殺人狂時代(1947年)」「黄金狂時代(1942年/サウンド版)」「ライムライト(1952年)」といった数々の名作を生み出した時代でした。
映画「黄金狂時代」の冒頭、行列をなして雪山の峠を越す場面やチャップリンが断崖絶壁を熊に後をつけられながら歩く場面は、クロンダイクに向ってチルクート峠を越える陸路(後述)がモチーフになっています。主人公は艱難のすえ見事億万長者になり、蒸気船でアラスカを後にし、船上で新聞記者の取材を受ける、というところで映画は終わりますが、実際そのようにして「金鉱発見!」のニュースを見聞きした人々は、シアトルやサンフランシスコから蒸気船でクロンダイクへのアクセスの起点となるアラスカ州に向い、ごく一部の人々が金を採取することに成功しました。
彼らが手にしたのはなんと現在の10億ドル(1,000億円)以上の価値があったと言いますから、とんでもない額の金が採取されたことになります。
伝えられるところによると、4年間続いた「クロンダイク・ゴールドラッシュ」の間にこの地を目指したのが約10万人。しかし実際にクロンダイクにたどり着く事ができたのはわずかに4万人程度だったとか。そこから採掘権を得て金を手にする事ができた人は、さらに少数だったと言われています。こう書いていると、ゴールドラッシュは人間も土もあらゆるものをふるいにかけていったようにも感じられてしまいます。

金の採取は手作業
ツアー日程の中では、実際に金を採取する観光プログラムが組まれていました。気の遠くなるような作業を積み重ね、泥の中に埋もれているわずかな砂金をかき集めて金の塊を作るというプロセスに、今から200年ほど前の発見時に「肉眼で金が見える状態」だったということがどれほど凄いことなのかを実感したわけです。

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今でもこの地域では金の採掘が行われていて、ごく稀に500円玉ほどの大きさの金の塊が出ることもあるそう。自慢げに見せてもらった後に、「あくまでもこれは例外だけど」と付け加えることも忘れませんでした。

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これが実際に発見された金の塊。ようやくわかりました。これがその辺に落ちているなら、欲しい・・・ゴールドラッシュの時は、こういう「ナゲットサイズ」の塊が、ゴロゴロ出てきたのでしょうね・・・・この時「もしかしたらこれが自分の足元に?」という思いがよぎってしまったわけですから、あちこちで「金を発見!」というニュースが飛び交っていたアノ時代に人々が殺到する気持ちもわかる気がします。そして私がこのツアーで泥の中から発見した金は、、、、
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これ。「ちなみにおいくら?」「うーん(苦笑い)、1セント(日本円で一円以下)?」。現実は厳しいのです・・・。まさに「成功者」じゃあない方をまっすぐ歩いているじゃないですか。。

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実はこの後「ドレッジNO.4」という巨大な船(ここもカナダの史跡)も見学。たったひとすくいの土から一粒の砂金しか取れなくても、大量の土砂を大型の機械を使って24時間稼働させれば絶対に金の延べ棒にたどり着ける、とこんなものを作ってしまいました。一見これは建物のように見えますが、川に浮かべて土砂をかき出す船。川底に杭を打って固定し、掘り尽くしたら杭を抜いて移動する。ガシガシと土を掘るついでに、永久凍土の中に凍ったままで埋もれていた太古のナウマン象なども掘り出していたんだそうです。

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この機械が稼働したのはゴールドラッシュが終わった後の1913年〜1960年。金鉱掘りが見えるものを取った後、やって来たのはプロの方々。資本をつぎ込み、当時の政府も動かして法律まで変え砂金を掘り尽くしました。採算が取れなくなると機械自体をその場に見捨てて行ったのですが、最近になって土に埋もれていたものを掘り出してカナダの史跡に指定。現在はクロンダイクの歴史を語る大事な場所として、第二の人生を送っています。それにしても、「一攫千金」を夢見る人間のあくなき欲望のすごさをかいま見た思いでした。

ボナンザ・クリークの先には、標高1,234メートルの山「キングソロモン・ドーム」があります。この山こそ、クロンダイクにゴールドラッシュをもたらした金の鉱脈であると信じられ、実際多くの金を産出しました。現在はユーコンとアラスカを結ぶ犬ぞりレース「ユーコン・クエスト」の通過地点となっています。

金鉱の街、ドーソン・シティー
ドーソン・シティーは、この「キングソロモン・ドーム」と下流のボナンザ・クリークからわずか32キロの麓の街。もともとは先住民が住む静かな街だったのが、最盛期には金採掘のために集まった4万人もの人で溢れたと言いますから、大変な盛況ぶりだったことが伺えます。

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現在では人口もわずか1,300人あまり。観光と鉱業が中心の質素な佇まいの小さな街は、端から端まで10分も歩けばたどりつくエリアに、ホテル/レストラン&バー/カジノや郵便局/銀行など、今も当時をしのばせる建物が保存されていて、「クロンダイク」の文字も看板に見ることができます。

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街の中心にあるビジターセンターでは、当時の服装で身をかためたガイドさんがお出迎え。徒歩で街を説明してくれるツアーに参加して、「古き良き時代」のドーソン・シティーを訪ねます。ちなみに上の写真はかつての銀行を訪れた時に入れてもらった「金の部屋」。正面奥に見えるストーブのようなものは金を溶かす炉。銀行に預けられた金はここで延べ棒に変換されていたのだそう。金鉱の街ならではの珍しい光景です。

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また街を流れるユーコン川沿いには遊歩道があり、そこには金を求めてやって来た人々を記念碑には解説パネルがつけられていました。実はユーコンの街道沿いには沢山あって、要確認ポイント。複雑な歴史や位置関係などをわかりやすくまとめてあるので、ぜひチェックしてみて下さい。



人々はどうやってドーソン・シティーにたどり着いたのか?
現代は、ドーソン・シティーはホワイトホースからクロンダイク・ハイウエーや小型飛行機の定期便を使えば数時間で到着できる便利な時代。飛行機や車という交通手段がない当時は、船や徒歩で何カ月もかかっていたのだそうです。

「金発見!」のニュースを聞きクロンダイクに向った第一陣は、潤沢な資金を持った人々でした。彼らはビクトリアから蒸気船でアラスカ州セント・マイケルズに入り、そこからユーコン川をドーソン・シティーまでボートで上がる総延長7,600キロあまりのルートを利用。上の地図も参照して下さい(クリックするとちょっとだけ大きくなります)。

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写真はホワイトホースに保存されている「S.S.クロンダイク」(S.S.とはSteam Ship=蒸気船の短縮形)。1929年建造で、今のようにホワイトホース〜ドーソン・シティー間740キロのハイウエイが整備されていなかった時代の重要な輸送手段として、1950年まで両都市を結んでいました。当時の彼らもこんな蒸気船を使ってクロンダイクへ向っていたのでしょうか。
アラスカ側からクロンダイクに入るには、峠越えの険しい山岳地帯は避けられません。裕福な人々は、船を借り、現地に詳しいガイドを雇ってユーコン川を上流に向けてドーソンシティーまで約2,000キロをたどるルートを利用して、危険な陸路を避けて現地に向いました。
記録によると、1897年にこのルートを使ってドーソン・シティーに向った1,800人のうち、冬になる前にクロンダイクに到着できたのは、わずか43人。残りの人々の運命はというと、やむなく引き返したか、冬の到来と共に氷と雪に覆われ、凍り始めた川の中で身動きができない状態になってしまったと言われ、「峠越えの陸路より安全」と予想されたこのルートの現実は、想像より厳しいものでした。

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さて、「その他大勢」の資金がない人々が向ったのは、峠越えの過酷な陸路。起点の街は今回の鉄道の始発となっているアラスカ州のスキャグウェイおよびダイイ。上の写真はスカグウェイの目抜き通りにある「Railway Building」ですが、中に入るとゴールドラッシュ時代の展示が行われています。

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到着まで数ヶ月を要する旅の現実は、テントや食料、燃料等荷物を担ぐ労働力を現地で雇い、列をなして国境のある峠に向うというもの。運良く峠越えに成功し、いくつかの湖を経由してユーコン川につながる中継地点のベネット湖へ到達すると、そこから急流が続くユーコン川をさらに上ってドーソン・シティーを目指さなければなりませんでした。

実は今回乗車した山岳鉄道は、この陸路が原型。かつては命がけで登っていた場所を列車から眺めることができるというものなのです。


(Klondikers carrying supplies ascending the Chilkoot Pass, 1898)

峠越えのルートは2つ
彼らの前にたちはだかったのは、ホワイト峠(標高873メートル)とチルクート峠(標高1,067メートル)。上の白黒写真は1898年に撮影された実際のチルクート峠の様子で、こんな風に峠越えをしていたのですね。すでに著作権が放棄されパブリック・ドメイン化されている写真を使用させてもらいました。

ダイイの街から出発する山岳ルートは、チルクート峠越えのトレイルを行くもので、ベネット湖まで約53キロ。最初の26キロの区間は、岩場を上りながらカナダ国境を目指し標高差1,000メートルを走破する難ルート。国境の峠を越えると緩やかな下りに変わり、6つの湖沿いに歩きトレイルの最終到着点を目指します。
もう一つのルートは、スキャグウェイを出発しホワイト峠を上るもの。チルクート峠よりも標高が低いため、多くの人がこのルートでドーソン・シティーを目指しましたが、場所によっては人ひとりようやく通れる道幅が60センチほどしかない危険な場所が連続する切り立った岩場を通るために荷物を運ぶ馬が立ち往生・転落する事態が続発。標高は高いもののよりアクセスの良いチルクート峠のルートが好まれました。

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上の写真は、再び「Railway Building」内の展示ですが、両側が切り立った岩場の峠越えルートは谷に沿って上って行くしかない状態が良くわかります。

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この写真は、鉄道から撮ったものでちょうどホワイト峠あたりだったと記憶しますが、あたり一面が岩場。とても歩けるような場所ではありませんよね。

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列車から渓谷を見ていると右側の山肌がつるつるの岩で、峠越えの行程がどれだけ危険なものだったのか、想像すると恐ろしいばかりです。

峠の難所を越え、トレイルの終着点であるベネット湖に到着するとそこからドーソン・シティーまではさらに800キロ。夏にはユーコン川を利用した川を上って行くルートが利用できたのですが、大量の雪解け水をたたえた川は急流の難所続き。多くの船が座礁し、たくさんの人命が失われました。現在でも「クラス5」と呼ばれる急流が、各所に存在しています。

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話は違いますが、人間の他にアラスカからホワイトホースまでの3,000キロの道のりを、ユーコン川を使って上ってくる生き物がいます。カナダでは「Chinook Salmon(チヌーク・サーモン)」あるいは「King Salmon(キング・サーモン)」と呼ばれているものと、「Chum salmon(チャム・サーモン)」という鮭。なかでも栄養素が豊富に含まれているチヌークは、人気です。
彼らは普段アラスカ沖のベーリング海に生息している種ですが、3〜4年間ほど海で過ごした後に産卵のために大挙してユーコン川に入り、ホワイトホース周辺までやってくるのだそうです。その数は約5万匹で、カナダに到達するのはそのうち4万匹あまりなのだそうです。
スカグウェイの街はずれに、サーモンが上がってくる場面を見られる所があります。ちょうど写真のようにチャム・サーモンが必死になって上流に向っている場面が見られました。これから過酷な3,000キロの道のりが待っているのですね。

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そして終着点のホワイトホースには、「Fish ladder(魚のはしご)」があります。水力発電所のダムがサーモンの行く手を阻んでしまうことを避けるため木製の水路が作られていて、8月になるとここをサーモンが上がって行くのだそうです。2013年の今年は、約1000匹がここを通過。現代に生きる魚も、なかなか大変ですね。

話を人間の歴史に戻しますと、峠と急流をくぐり抜け、命がけでクロンダイクに到着した彼らを待っていたのが、金の採掘のため必要な「採掘権」の取得。日本で言うところの土地の登記簿のようなものと考えてよいでしょう。決められた大きさに区切った区画でしか、採掘はできない仕組みになっています。
しかも大多数の人が現地に到着した時にはすでに主な採掘権は取り尽くされた後で、故郷に戻るお金もなく現地で就職する人が続出していました。映画「黄金狂時代」でも、一文無しで街にたどり着いた主人公が、採掘権を持った裕福な人の家の前で行き倒れになったフリをして間借りをするというシーンがありました。実際そういったことは当時いくらでもあっただろうと想像することができます。
当時の値段で、約3万ドル。ただし1日に5千ドルほどの金が採れたと言いますから、採掘権は6日分ということになります。ちなみに現在も採掘権が売りに出ることがあって、調べてみると場所にもよりますが、権利だけでも5千万くらいするようです・・・・・

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さて、採掘権が買えなかった人々の運命は、「現地就職」。一攫千金を夢見て命がけで到着した街で就職するとは、思わなかったのではないでしょうか・・・当時は採れた砂金を銀行に預けたり現金に換えることができましたが、酒場などでは砂金で飲食ができました。その場合、バーテンダーは秤を持ち、酔っぱらいが砂金を入れて、、、という原始的な方法がとられていました。酔っぱらっているので当然床に砂金をこぼす。翌日に掃除をすると、ちりとりには鉱脈で泥をすくって取るよりはるかに簡単に砂金が採れたとかとれないとか・・・。
ちなみに紙に何か書いてあるのは「ツケで未支払いの代金(I.O.U=I owe you=直訳すると「私には借りがあります」)」。実は、バーテンダーも金鉱掘りも互いに信じていなかったのですね。だから「ツケ」が常識。しかも、彼らは単純なダイスゲームで金を賭けるのを常としていました。「I.O.U.」ノートはもっぱら賭けで負けた金額を記したもの。バーを出る時に払えないとこの紙が渡され、次に来る時には必ず払わないと警察に突き出されます。左の紙の人、とんでもない額の借金(Shaking Diceと書いてありますね)! 「金がみつかりゃぁ、すぐ返すさ!」っていう空気で、飲む/打つを続けられたんでしょうかね。。。この人が実際どうなったのか、とっても興味があります。

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現地で聞いた話ですが、ドーソン・シティー最古の劇場「グランド・シアター」が火災で焼け落ちた時(踊り子さんの痴話げんかの末ランプを投げたことが発端らしい・・)、内部の状況を知る資料が失われても、焼け跡からバーのあったカウンターの場所だけは正確に分かったそうです。理由は床に落ちていた砂金。火災の熱によって溶かされ、しっかり四角い跡を残していた、と。この手の話は、金鉱の街ドーソン・シティーに沢山あるようです。

すっかり話が長くなってしまいました。
ドーソン・シティーからスカグウェイへの鉄道の出発点はフレイザー(時期によりカークロスからの出発あり)。ドーソン・シティーからツアー・バスで、そこから鉄道に乗りスカグウェイの街に到着。散策後に再びツアー・バスで陸路ドーソンシティーへ戻るツアーはほぼ丸一日かかります。国境を越えるのでパスポートが必要になりますが、かつて「クロンダイク」を目指して命がけで峠を登ったルートを鉄道でたどりつつ、古き良き時代の歴史を思い起こすことができる小旅行、ぜひお試しください。

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人間も、その欲望も、土も、砂金も、ありとあらゆるものをふるいにかけてしまう「クロンダイク」。今振り返ると、ゆる〜い街の雰囲気も、ひっそりとたたずむ銅像も、すべてのものがその歴史をしっかりと今に伝えているのだと、納得してしまうから不思議です。

20130901_233147_01 そうそう、夜になったらドーソン・シティーの社交場でもあるカジノでカンカン・ショーが行われていますので、これもお見逃しなく・・・この高く上がっている踊り子さんたちの足こそ「クロンダイクの神髄」と心得ました。